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「地球は生きている6〜静寂〜」

 「おかしいなぁ...」
 行けども行けども、滝が出てくる気配がありません。滝どころか、どんどん雲が迫ってきます。まるでこのまま天空の世界へ行ってしまいそうな気がしました。
 「よし、今日は絶対デティフォスを見るぞ!」
 デティフォスとは滝の名前で、その規模はヨーロッパ一と言われています。朝ホテルを出発した僕は、ガソリンを満タンにしてアークレイリの街をあとにしました。デティフォスの滝は、昨日のネイチャーバスのさらに先にあるので、途中までは同じルートになります。それだけ、海外での運転に対する抵抗や緊張も、もはやなくなっていました。
 「とりあえず、いっとくか」
 昨日見たばかりなので寄るつもりはなかったものの、どうしても体が言うことをきかず、通過することはできませんでした。いつ見ても同じだろうと思っていたゴーザフォスの滝は、あんなにも吹き荒れていた風が嘘だったかのように、今日はとても穏やかな空気が流れていました。自然も人間と同じように、機嫌のいい日と悪い日があるのかもしれません。
 「とりあえずここも、いっとくか」
 昨日はいったばかりなので寄るつもりはなかったものの、次いつ来られるかわからないと思うと、ここもどうしても素通りできません。結局この日も、ミーヴァトンのネイチャーバスにはいることになりました。しかも、昨日は僕のほかに7、8人(これも相当少ないですが)いたのに、そのときはまさに貸し切り状態で、まったく人の気配がありません。たった一人でブルーの温泉に浸かっていると、地球にあたためてもらってる、そんな気分にもなります。もはや楽園というよりも、地球を独り占めしている気分でした。
 「さぁ、ここからだぞ」
 すっかりぽかぽかになった体で窓を曇らせた車は、未開の地へと進んでいきました。しかし、デティフォスの滝まで直行するつもりだったのに、出発してすぐ、車を停めることになりました。
 「これは通過できない...」
 それは、僕が子供の頃見ていたアニメの世界でした。いまにもマンモスがでてきそうな荒涼とした黄土色の大地に、ものすごい勢いで煙を吐き出している小山。セメントのような灰色のどろっとした液体が沸騰するようにぐつぐつ泡をたてている池みたいなのが点在しています。それは、さっきの楽園から、いっきに地獄に突き落とされたかのような光景でした。原始時代にタイムスリップしたかのようにも見えます。それにしても煙の噴き出し方が尋常じゃありません。いったいどれくらいの年月をかけて噴き出しているのでしょう。とめどなく吐き出される白煙は、はるか遠く、溶岩台地の上を這うように流れていきます。その光景は、地球の呼吸というよりもむしろ地球のおならといったほうが適切かもしれません。
 「デティフォス...ここだ!」
 気になるものを見つけては車を停めていたので、目的地の標識を見るまで予想以上に時間がかかってしまいました。相変わらず控えめなその標識によると、デティフォスの滝は、そこから28キロとのことでした。
 「なんか書いてある...」
 標識どおりに曲がるとそこには、「4WD以外の車、進入禁止」という看板が立っていました。道が悪いため、通常の車でなく、オフロードタイプの車でないと駄目ということです。僕のトヨタ車は、オフロードのものではありません。
 「まぁ、悪路だけど、トヨタでも平気だよ」
 途中に立ち寄っていた観光案内所のおじさんの言葉が浮かびました。看板はきっと大げさで、4WDじゃなくても問題ないんだ、案内所のおじさんの言葉を信じよう、そう勝手に判断すると、トヨタ車は舗装されていない道をゆっくりと進んでいきました。
 「それにしても、ずいぶんひどい道だな...」
 たしかに道は悪く、ヨーロッパ一の滝までの道のりなんだからもっと整備されていてもいいはずなのに、穴ぼこだらけで放置されている感じでした。それらをよけながらだったので、どうにもスムーズに進みません。
 「ほんとにこの道であってるのかな...」
 それにしてもなかなか滝が現れる気配がありません。いけどもいけどもでこぼこ道が続きます。すれ違う車はもちろん、あとにも先にも車はなく、どうも普段利用されている気がしません。どこから落ちてきたのか、大きな岩がごろごろと転がっています。気付くと、僕のクルマは360度、一面乾燥した黄土色の台地に囲まれていました。地球の果てまで見えてしまいそうな見渡す限りの荒野に、ついに不安が期待を追い越してしまいました。
 「ここでもしも穴にはまって身動きがとれなくなったら...」
 嫌な予感しかしなくなってきました。車が動かなくなったら助けを呼ぶにも呼びようがありません。もはや、歩いて引き返すには遠すぎるところまで来ています。街に戻れないどころか、日本にも帰れません。下手したら命にまで関わってきます。地面に落ちている白く枯れた枝が、白骨のように見えてきました。
 「ここで引き返すわけにはいかない!」
 ここまで来て、ヨーロッパ一の滝を見ずに帰ったら一生後悔すると、僕は気持ちを奮い立たせ、ただ前だけを見て進んでいきました。
 「頼むぞ!世界のトヨタ!」
 あとはもう、日本が誇る、世界のトヨタの技術を信じるしかありませんでした。どの国に行っても看板をみないことはない、世界のトヨタの力を信じて、僕はひたすら天空へと続く荒涼とした台地をさまよっていました。
 「よし、あの坂を上ったら」
 なんども繰り返す起伏の度に、ため息がこぼれました。坂をのぼったときに果てしなく続く道が見えると、あそこまで行くのかと、気持ちが萎えてきます。そこで僕は、どうにかテンションを維持するために、カバンの中からあるものを取り出しました。
 「頼むぞ!世界の亀田!」
 取り出したのは、世界に誇る日本のおかき、亀田の柿の種(わさび味)でした。これを食べてどうにか不安を軽減させようとしたのです。海外でこそその看板を見たことはありませんが、亀田の柿の種(わさび味)はまさに世界に誇る日本の味です。亀田に限らず、こういったおかきをはじめ、日本のお菓子は世界に誇るものなのです。お菓子といってもパティシエが作るようなものではなくて、いわゆるコンビニで売っているお菓子。ポテトチップなどのスナック菓子にしても、その緻密に計算された味に匹敵する海外のお菓子はないといっても過言ではありません。ハッピーターンのような絶妙な味は、そう簡単には真似できないのです。もっというと、おいしい和食を食べてると、結局これが世界一だと思うことがあります。海外の料理はどこか味付けでごまかしている感があるのに対し、日本の料理は、その素材の良さを存分に引き出して勝負している気がします。だから飽きないし、疲れないのです。日本人の僕がいうのだから説得力ないかもしれませんが、いずれにしても、日本のお菓子には、日本人の味に対するこだわりと、繊細な心が反映されているのです。
 「世界のトヨタ!世界の亀田!」
 ひたすらそう口にすることで、どうにか不安を払拭しようとしていました。この2大スポンサーに支えられて、前に進んでいたのです。しかし、イケイケムード(なつかしい!)もそう長くは続きませんでした。
 「やっぱり間違えたのかも...」
 アルファベットではあるものの、英語ではありません。アルファベットでは表記できない文字も混ざっています。僕は、あの時見た標識が、本当にデティフォスと書かれていたのか確信できなくなっていました。満タンに表示されていたガソリンの目盛りも減り始め、唯一の食料であるお菓子もなくなりました。そして、もう一度地図を見ようと、車を停め、サイドブレーキをかけたときです。
 「えっ...」
 体が妙な感覚に襲われました。それまで悪路を走る音で騒々しかったけれど、車を停めた途端、目に映る大自然の中から音がなにも聞こえていないことに気付きました。ただ、エンジンの音だけがガタガタとなっています。そして僕は、ゆっくりと車のキーを回しました。
  それは、音のない世界でした。まるで地球上の音すべてがリモコンでピッとミュートされたかのように、プツッと切れてしまいました。目の前には荒涼とした台地が延々と広がり、視界にはこんなにも広大な景色があるのに、まるですべてが遮断されたかのようになにも聞こえてきません。ただ雲は流れ、太陽が燦燦と輝いています。世界が一瞬にして、静寂に包まれました。そして、音のない世界に対する感動は、やがて恐怖へと変わっていきます。怖くて音を発することすらできません。静寂が、すべてを支配していました。まるで、音を発することが禁じられているかのようです。静寂は、どんなに激しく強い音をも飲み込んでしまう、この世でもっとも強い音なのかもしれません。
 「どうしたらいいんだ...」
 静寂がこんなにもおそろしいものとは知りませんでした。静寂が支配する世界、音が閉ざされた世界に僕は、地球を独り占めというよりも、地球の最後の一人になったようでした。
 車から降りると、ひとつひとつの行動から生じる音がすべて、静寂に吸収されていきます。怖くて深呼吸すらできません。突如UFOでも現れてさらっていくんじゃないだろうか、そんな不安もよぎります。それでなくとも、どこか違う惑星に来てしまったような感覚になります。心臓をぎゅっと掴まれるような、感動と恐怖とが激しく拮抗している中、僕の目にあるものが映りました。
 
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