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「さよなら親切の国〜step into the sunshine〜」
最終話 step into the sunshine

 レモンの香りがまだ消えないうちにリスボンの街が見えてきました。太陽に照らされた港町は3日ぶりにしてもはや懐かしく、これまでいた場所がずっと田舎だったからマンハッタンのようにすら感じます。キリスト像を右手に橋を渡り、初日に泊まったホテルに荷物を置いて車を返却しにいきました。
「おかげで楽しい旅ができました」
 モンサラーシュ、モンサント、サグレス、マルヴァオン、興奮気味に旅の報告を受ける女性が笑顔で頷いています。旅のすべてが詰め込まれたcdを取り出し、忘れ物はないか最後のチェック。ずっと運転手のわがままに付き合ってくれたこの車ともお別れです。こんなに走らされるとは思っていなかったでしょう。
「ムイトオブリガード」
 3日前よりもいい発音になっていることに気付いたのかいないのか、彼女は手を振り見送ってくれました。今日はポルトガル最後の一日、明日の朝にはもう空港に向かわなければなりません。
 ここを出発してからこれまでにどれだけの人に道を尋ねたことでしょう。どれだけオブリガードと発したことでしょう。たくさんの人たちと言葉を交わしながらここまで来ました。たくさん会話をしたからいつも心は満たされていました。地図を書いてくれた人たち、途中まで送ってくれた人たち、10分くらいかけて説明してくれた人たち、本当に地図は不要かもしれません。たくさんの親切、彼らにとって人のためになにかをすることは面倒くさいことでも厄介なことでもなく、むしろお世話を焼きたいくらいなのかもしれません。だから道に迷ってもたとえ言葉がわからなくても大丈夫。彼らの表情を見れば安心するのです。その親切な人たちとももうすぐお別れしなければなりません。そして、あの太陽とも。
 今回ほどその存在を実感したことはありません。まるでいままで見ていたものとは別の太陽に出会ったかのようです。太陽が愛おしくすら感じました。太陽が昇り、日が沈むことがどんなに素晴らしいことか。普段あたりまえに思って感謝することを忘れていました。朝が訪れること、明日があること。太陽があること、自分が存在すること。もしかしたら、あたりまえなんてないのかもしれません。そう思うと木々や雲や鳥たち、石までもが愛おしくなり、すべてに感謝の気持ちが生まれます。すべてがつながり、ひとつであることを実感できるのです。自然にも太陽にも、そして家族や友人、あたりまえに存在するものにありがとうを言いたくなるのです。毎日ありがとうを言える生活がどんなに素晴らしいことか。それがきっと、心で生きるということなのでしょう。
 世界は旅人にやさしい、旅をすると人のやさしさを感じられる、海外を訪れる度に思います。でも今回特に実感したのは、世の中に足りないのは愛じゃない、ということです。
 世の中に愛はたくさんあって、人の中にもたくさんあって、ないのは愛を感じる心やタイミングであって、いまの世の中のシステムがそうさせているだけ。社会が便利になりすぎて「愛」を感じることが難しくなってしまったのです。便利かどうかのものさしも大切だけど、愛を感じられるかどうかのものさしも大切で、いくら便利になっても「愛」を感じられない世の中ではいつまでたっても満たされないのです。きっとそれは政治家がコントロールすることではなく、人々がいつかそのことに気付くだろうしもう気付いている人もいるでしょう。だから決してポルトガルの人たちが特別なのではなく、ただそれを感じることや表現する機会を失ってしまっただけ、愛を感じる道具を使わなくなってしまっただけで、ほんとはみんな愛に溢れているのです。耳に栓をしてしまうように、目を閉じてしまうように、心を使わなくなった僕たちが心で生きることができたなら、心を豊かにできたなら、おのずと身の回りの愛が見えてくるはず。それは決して難しいことではなく、ちょっと考え方をずらすだけでいいのです。旅をしなくても人のやさしさを享受できるのです。
 僕たちは少し、迷惑をかけることを恐れすぎなのかもしれません。人に寄りかかることを避けるようになり、それが悪いことのような風潮になってしまいました。それは嫌がらせをするということではありません。生きる上で誰かに依存することや助け合うことは決して悪いことではなく、むしろ、ひとりで生きていると勘違いしたり、ひとりで生きようとすることのほうがよっぽど間違いなのです。もっと人は上手に寄りかかるべきなのです。
 僕は信じています、世界は愛に溢れていることを。人は愛に溢れていることを。人類は命を使ってそれを絶やさないようにしているのでしょう。天国というものが実際あるのかわからないけど、もし存在するとしたらそれはまさに今なのかもしれません。人は命を失ってから生の世界の美しさを知るのです。
 青い空と白い建物。オリーブやコルク樫。果てしなく続く草原。のんびり草を食む羊たち。そして言葉では表現できない瞬間がありました。ガイドブックには載っていない光景や温度、空気や色、たくさんの親切がありました。たくさんのありがとうや笑顔がありました。あのとき草原を駆け抜けた風を、僕は一生忘れないでしょう。ずっと大地を照らしていた太陽も。
 step into the sunshine、本当のサンシャインはポルトガルの人々の心だったのかもしれません。荒い運転に荷物を揺さぶられていたあの頃。そして僕は、太陽に輝くリスボンの街へと繰り出しました。

               さよなら親切の国〜step into the sunshine〜おわり

 
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