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「さよなら親切の国〜step into the sunshine〜」
第十話 車のいろはレモンのいろ

「どうしたの!」
 前日チェックアウトしたばかりの日本人の訪問に彼女は、「目を丸くして」という言葉はここから生まれたんじゃないかというくらい目を丸くしていました。
「この村が忘れられなくて」
 また来ますと言ったもののまさかこんなにも早く訪れるとは夢にも思わなかったでしょう。さぁさぁはいってと言う彼女の前を長旅の疲れと安堵に満ちた表情の青年が通過しました。
「もう閉まってるかなぁ」
 夜の11時。とりあえずベッドは確保できたものの尋常じゃないほどの空腹に見舞われています。荷物を置いて急いで向かった一軒目のレストランはもう暗く、残すはあのお店しかありません。3回目、しかも昼にも訪れていることを若干気にしながら向かった生ハムのお店の扉からうっすら光が漏れていました。看板には昼間と同じ文字のプレートがかかっています。
「ボワノイテ」
 扉が開くと光と音が3度目の来店者を包みました。この時間は平野レミさんの姿はなく、席に案内してくれたのは前にホテルを教えてくれた店長らしき女性。この時間は風が冷たいのでテラスにはいきません。せっかくだから違うものをと思った僕の指はやはりいつものメニューを指し、彼女も説明を聞くまではパンから生ハムを取り出す光景を心配そうに見ていました。
「いないなぁ」
 食事を終えた僕は落し物でも探すように石畳の上を歩いていました。教会の前、照明の前、頭の中では鳴き声が聞こえるのにどこにも姿はありません。大西洋のサンセットを捨ててたどり着いた現実はそう甘くはなかったのです。
「飼い猫なのかな…」
 もしかしたら誰かの家の中にいるのかもしれない、そう思った瞬間、猫らしき姿が視界にはいりました。あの猫だろうか。一瞬にして気持ちが高揚した僕の目の前にいるのは確かに猫ではあるものの、あのときとは違う猫でした。
「どうしてあの猫じゃないとだめなのだろう」
 猫なんてどれも同じなのに、どうして別の猫じゃだめなのだろう。どうして僕はこんなにもあの猫に会いたいのだろう。猫なんてどこにでもいるのに。たしかにあの夜一緒に石畳を歩いた猫は世界でただ一匹。あの猫とほかの猫との違いは同じ時間を過ごしたかどうかだけなのか。なぜ人は会いたいと思うのか。なぜ人は抱きしめたいと思うのか。いろんな想いが頭の中を駆け巡る僕の体を撫でるように冷たい風が通り抜けていきました。
「ボンディア」
 目を開けると窓から光が差し込んでいました。陽光に輝くレモンの木の下で洗濯物を干す女性が見えます。
「マルメロって知っていますか?」
 映画「マルメロの陽光」で知った果実の名前は彼女を何度も頷かせました。こちらではジャムなどにして食べることが多く村のお店でも売っているそうです。マルメロではなくレモンの陽光を前に目を細めるふたつの顔がカメラに納められました。
「あら、また来たの!」
 平野レミさんも目を丸くしていました。さすがにもう厨房で話題になっているかもしれません。「あの人、よっぽど生ハム好きなのね」と。もし言葉を交わしていなかったら不審な目を向けられていたかもしれないけど、ずっと会話をしてきたのできっと今後何回訪れても何度同じものを注文しても不審がられることはなさそうです。むしろ別のものを注文するほうが不審に思われるくらいで。もはや常連客となった男性の前にいつものセットが置かれるとサンドウィッチの解体ショーがはじまりました。もう、心配してやってきたりはしません。明るい笑い声だけがアレンテージョの平原に下りていきます。金色の髪とブルーの瞳が太陽に輝いていました。
「また来ますね」
それがいつになるかわからないのにまるで明日にでもくるかのように伝えて店を出た僕を信じられない光景が待っていました。
「うそ…」
 ほかの誰よりも目を丸くしました。あのときの猫がそこにいます。太陽の光を浴びてちょこんと石畳にお尻をつけています。東京ラブストーリーの曲が流れました。僕のことを覚えているのだろうか。ゆっくり距離が縮まっても彼女は逃げようとしません。これは夢なのか。そして僕の指が彼女の肌に触れました。
「会いに来てくれたんだね」
 日向ぼっこをしていた体が僕の指をあたためています。また会えるなんて。記憶の中にあったものと同じ鳴き声が何度も耳からはいってきます。なぜ会いたいと思うのか、なぜ抱きしめたいと思うのか、少しだけわかった気がしました。
「じゃぁね」
 それは人生最大の遠距離恋愛でした。おそらく今後この距離を超える恋は訪れないでしょう。いずれにしてもまたこの村に来る理由が増えました。何度も手を振りながら門をくぐる僕を彼女はずっと見つめているようです。この中は果たして現実だったのだろうか。でももう現実かどうかなんてどうでもよかったのです。
「また会えるといいな」
 すべての心が満たされて、モンサラーシュをあとにしました。向かうは3日ぶりのリスボンの街。太陽は今日も輝いています。車の中はレモンの香りが漂っていました。

 
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