「生ハムが食べたい…」
それは青い空でも白い壁でも、広大な平原でもありませんでした。僕を呼び寄せるもの、それはあの生ハムのサンドウィッチでした。どうしてもあの味とあの厚み、あの光沢が忘れられなかった僕は、置き忘れた心を取りに行くという名目で、モンサラーシュの村に寄ることにしました。東京から大阪に行く途中に名古屋で手羽先を食べるみたいなことでしょうか。実際はそんな都合よく並んでいませんが。
「ボアター」
おととい来たばかりなのでお店の人も覚えているかもしれない、そう思って扉を開けた日本人を迎えたのはこの前とは別の女性。とても明るくテンションがやや高めでポルトガル版の平野レミさんといった感じです。まったく英語がわからないらしく、というよりも自らそう決め付けているようで、自分がかなづちだと思いこんでいる人がものすごく浅いプールで溺れて騒ぐように、英語を耳にすると拒絶反応を起こすように軽快に笑ってごまかします。
「もしかして、生ハム苦手でした?」
そんな笑顔が印象的な彼女が深刻な顔をしてテラスにやってきました。あとで存分に味わおうと生ハムをパンから取り出していたからです。
「そうじゃないんです、好きだからなんです」
自分で生ハムのサンドウィッチを注文して生ハムが嫌いなわけありません。誤解のないのように説明すると、理解したのかしていないのか、深刻な表情の余韻もなく瞬時にレミさんテンションに切り替わって軽快に笑いだしました。そんな彼女の笑い声も風にのって平原で草を食む羊たちの耳に届いているかもしれません。
「いないか…」
お腹は満たされたものの、まだ満たされていない部分がありました。心のどこかで探しています。でもどこにも姿はありません。やはり筋書き通りにはいかないものです。いまデジカメに映っている猫は本当に実在するのだろうか、頭の中を鳴き声がリフレインしています。後ろ髪を引かれる思いで僕は村をあとにしました。
二度目のモンサラーシュを出るとここからはひたすら南下の旅。デッキの中で「step into the sunshine」の文字が回転しています。今日も気持ちのよい青空が広がり、仮に明日大雨だとしてももはや勝ち越しているという余裕さえありました。向かうは海外進出の拠点となった場所、サグレスです。
ポルトガルの海外進出は、世界史を選択した人なら聞いたことあるかもしないエンリケ航海王子によって積極的になされました。いまのハンカチ王子だとかハニカミ王子の類の最初の人かもしれません。彼は実際に王子でしたが。その後、一度は耳にした事があるでしょう、バスコ・ダ・ガマによって勢力が拡大され、数年のうちに新大陸のブラジルを併合、インドのゴアを占領、マラッカ海峡を掌握するなどたちまちその活動は地球規模になり、世界中の富がポルトガルに集まるようになりました。もはや世界征服さえ夢じゃなくなったのです。しかし、この時代の富はリスボンの資産家の私腹を肥え太らせたものの、地方農村は荒廃し、海外依存の体質に国内産業は育たず、ポルトガルの絶頂期は長くは続かなくなるのです。どこかの国と似ている部分もありますね。
「ここから航海にでたのか」
五百年以上前に人々が世界進出に希望を燃やしていた場所に僕は立っていました。あまりの風の強さに海に落ちてしまいそうです。要塞なので砲台もあるその場所は、海流の違いなのかたまたまなのか、アイスランドのそれよりもはるかに風が激しく、あの穏やかな雰囲気とは違った地の果てがありました。共通しているのは、鳥たちが自由に飛びまわっていることでしょうか。
「ここで見たら最高だろうな」
見渡す限りの大西洋。濃い青と薄い青の境界線に消える夕日はきっと一生忘れられないものになるでしょう。それが見たくて数百キロの道のりをやってきたようなものです。太陽との距離もさらに近づくかもしれません。明日リスボンに戻る前に最高の夕日を見よう、そう思って海沿いのホテルに向かおうとしたときでした。
「あれ…」
どうもうまく発進しません。
「おかしいなぁ…」
車ではありません、気持ちが動こうとしないのです。ホテルに向かおうとすると心が違うと言い、心のナビが警告するたびに胸が痛くなるのです。夕日を求めているのは頭の中だけで、どうやら心は違うものを求めているようでした。
「猫に会いたい…」
自分でもびっくりしました。まさかそんな言葉が飛び出すとは。でも心はそう叫んでいます。ホテルに向かうのをとりあえずやめた僕は、進路を北に設定しなおしました。カップルとかグループだったら大顰蹙です。一人旅だからできることでしょう。そうでなかったら当然我慢しますが。
「もう知らないからな」
太陽が、北上する車を照らしていました。数時間前にランチを食べたあの村に向かっています。平原でも白い壁でも生ハムでもなく、あの猫に会うために遥か300キロ以上の道のりを往復するのです。女性にだってそんなことした記憶はありません。でもリスボンに戻る前にもう一度会いたかったのです。あのとき一緒に過ごしたあの猫に。
「間に合うかな…」
どうせ戻るならということで選択した違う道はポルトガルの西側。森林の向こうにはときおり海が見え、巨大な風車が山の中に点在しています。途中、小さな白い建物の集落に魅了されながら北上しているうちにゆっくりと太陽が降りてきました。日が落ちてしまうと真っ暗な道を走らなければなりません。森の向こう側を走る太陽と追いかけっこをするように、というよりもむしろあの村に到着するまで見守ってくれているようにも感じられます。ただ、あの村に戻ったところで会える保障はありません。ホテルに泊まれるかもわかりません。でも、心は誰の言うことも聞かなかったのです。
「きっと会える…」
真っ暗な道を車のヘッドライトが照らしています。いまなら会える気がする、あの猫が呼んでいる、そんな風にすら感じます。オレンジ色の明かりが見えてきました。
「いない…」
単なる気のせいでした。人間の勝手な思い込みでした。猫の姿などどこにもありません。石畳に突き刺さったようにひとりの青年が立っています。時計台の鐘の音が石畳の隙間に浸み込んでいきました。