壁にかけられた絵画のように中庭に広がるレモンの木が窓越しに見えるダイニングルームで僕とイギリス人夫婦の3人が朝食をとっていました。ふたりは数週間のんびりポルトガルを旅しているそうで、乗り継ぎでならイギリスに足を踏み入れたことのある僕と同じように旦那さんは日本を訪れたことがあるそうです。学校の先生をしている奥様は、日本の漫画が生徒たちの間で人気だと教えてくれました。それにしてもいつも旅先で出会うのはこういった熟年の夫婦。カリフォルニア大学の旅行サークルでーす、わー!みたいな感じの人たちとはまず遭遇しません。僕はいつも年配の方たちが好むような場所を訪れているのでしょうか。
「ごちそうさまでした」
24時間前に摂ったものに比べたらとても質素な朝食です。パンとジャムとチーズにコーヒー。なんの変哲もない普通のパンがとてもおいしく感じられるのはこの村のせいでしょうか。日常で目にするものと食するものは無関係ではなさそうです。そういえばヨーロッパはどの国にいってもパンに裏切られたことはありません。日本人にとってのお米と同じなのでしょう。
部屋に戻った青年は頭に焼き付けるようにベランダからの景色を眺めていました。もう移動せずにここでずっと滞在してもいい、それくらい激しく気に入りましたが、ここだけですべてを判断するのよくありません。ほかにもきっと素晴らしい場所はあるはずです。離れたくない気持ちを抑えこむように荷物を詰めると、とても快適だったことそしてまたいつか必ず来ることを伝え、ホテルを出ました。
「やっぱりいないか…」
スーツケースを転がしながらまわりをキョロキョロしていました。また現れるんじゃないか、心のどこかで探しています。教会前の広場、照明の前、どこにもその姿はありません。小さな村とはいえそううまくいかないものです。「青年と猫」はやはり夢だったのでしょうか。時計台の鐘の音が時を知らせると、まるで心を残して肉体だけが離れていくように、モンサラーシュをあとにしました。
今日の目的地はモンサントという村です。またしても「モン」です。フランス語で考えれば「私の」という意味ですがどうなのでしょう。モンサントまでは距離にして大体250キロ。あくまで予定であって疲れたら無理はしないつもりですが、この気持ちよい空ならどこまでも走れる気がします。太陽を道連れに、車はオリーブの道を走り抜けていきました。
ちなみに今回の旅にも当然オリジナルコンピCDはあります。アイスランドのときはせっかく作ったのに忘れるわ財布をなくすわで散々でしたがいまのところそういった紛失事件は報告されていません。そればかりか、なにかあったときにいつでもパソコンで焼けるよう白紙のCDRも2、3枚持ってきていました。人間は学習する生き物です。ただ、この前訪れたアイスランドは2回目だったので風景を思い出しながら曲を選べたものの、今回ははじめてのポルトガル。見知らぬ地に合う曲を選ぶというのはなかなか容易ではありません。だからといってDJ歴9年にしてここでの選曲ミスは許されません。そうして、ガイドブックの言葉を頼りに作成した世界で唯一のコンピレーションアルバムは、これまでのところまったく申し分のない出来で、ポルトガル在住30年かと思わせるほどその田舎の空気に合っていました。その証拠にというと大袈裟ですが、今回作成したCDRの一曲目でありアルバムのタイトルはstep into the sunshine。前回はnorthern lights(オーロラ)で最終日にオーロラに出会いましたが、今回もそのタイトルのとおり、日を追うごとに太陽との距離を縮めています。不思議な因果関係です。まさかこんなにも太陽を近くに感じるなんて。アイスランドが地球ならポルトガルは太陽に対する親近感。その太陽を助手席に乗せて走る僕を、実はあるものが誘惑していました。それは高速に乗ったときからずっとかもしれません。ある意味国家レベルの策略ともとれます。モンサントへ向う僕の気持ちを揺るがすもの、それはスペインです。
「どうしよう…」
アレンテージョ地方のなかでもスペインの国境近くにいるため、しかもポルトガル自体そんなに大きくないので常に標識にはエスパーニャという文字が表示されています。いつでもその気になれば車に乗ったままスペインまで足をのばすことができるのです。アイスランド、そして日本にいるときは島国なので運転していて他国の名前が表示されることはありません。陸続きで他国と隣接しているからこそ経験できること。だからエスパーニャの文字を見るたびに心がぐらつくのです。現に、そんなことも想定してスペインのガイドブックも持参していました。バルセロナはさすがに遠いものの、マドリッドやセビリヤあたりなら寄れなくもありません。それこそ大好きな「ミツバチのささやき」の国。「マルメロの陽光」の国。一石二鳥のような気もします。でも、一日に映画を2本見るとそれぞれの印象が薄れてしまうのと同じように、一回の旅でふたつの世界を見たらそれぞれが薄まってしまう可能性もあります。男は葛藤していました。下手にスペインのガイドブックなんて持ってくるからこうなるのです。
「よし!とりあえず昼食にしよう!」
ということで立ち寄った村は「鷲の巣」と呼ばれる天上の村、マルヴァオンです。標高865mの岩山の頂に灰色の城壁で囲まれた村がちょこんと乗っかっている様子は下から見上げるとたしかに「鷲の巣」という言葉がしっくりきます。外観こそ不思議な光景ですが城壁からの景色は素晴らしく、その上に立って遠くの山々を見渡すことができます。ここで生活するとどんな気分なのだろう、そんなことを思いながら見晴らしのよいレストランにはいると紳士がテーブルまで案内してくれました。ちなみに係りの人を呼ぶとき、日本語なら「すみません」、英語なら「excuse me」ですが、ポルトガルだとこうなります。
「セニョール!」
最初はとても抵抗があったこの言葉もこの段階になるともう自然に発しています。相手が男性なら「セニョール」、女性なら「セニョーラ」。日本でもなじみのある「セニョリータ」はスペイン語の未婚女性に対する言葉です。
ポルトガルの料理といってもあまりピンとこないでしょう。スペイン料理や「ぽるとがる」というパンやさんなら街中で見かけることはあってもポルトガル料理の店は見たことありません。実際海沿いなので魚介類が豊富で干しダラやイワシ、タコなどが大衆的な素材のようですが、料理名となると日本ではほとんど知られていません。ただ、味は穏やかで、注文したものの食べられない、ということはなさそうです。
「見晴らしがいいでしょう、あの山はスペインなんですよ」
そう言ってお水をグラスに注ぐセニョールが一瞬スペインのスパイのように見えました。観光収入を目論んだスペインからの客引きともとれるセニョールの言葉。「お兄さん、いい子いますよ」に近いものを感じます。スペインがもうすぐそこにある、というかもう見えている、それはどの標識の文字よりも説得力と強い引力を持っていました。
「あんな近くに…」
車で国境を越える感じも味わってみたい、でもスペインに行くならもっと時間をかけたいしポルトガルも中途半端にしたくない、そんなモヤモヤした気分を洗い流すようにグラスの水が一気にのどを通過していきました。
「よし!とりあえず…」
会計をすることにしました。店をでて城壁の上を歩きながら異国の地を眺めます。スペインに行く場合、行かない場合、車のボンネットの上で地図を広げる青年を太陽が見守っていました。